1) 健康問題としての入浴事故
わが国の主要な死因は悪性腫瘍、心疾患、脳血管障害の3つである。高齢者では肺炎がこれに続き、不慮の事故による死亡は第5位に位置する。不慮の事故というと交通事故などが多いように思われるが、実際にはその大半が交通事故以外によるものであり、その中でも家庭内での溺水・溺死の増加がめだっている。溺水・溺死は事故に分類されるが、入浴中に起こった心・脳疾患の発作による死亡は病死とされ、これらを含む入浴中の急死は相当数に上るであろうと指摘されてきた。欧米各国と比べても、わが国における溺死は、海での水難事故の多いギリシャについで第2位にあり、他の原因による死亡が低率であるのとは対照的である。
入浴中の急死は近年増加してきていると推察されるが実態は不明の点が多かった。それは、第一に、大多数が一人で入浴しているときに起こるため発生状況が不明であること、第二に、明らかな根拠がなければ溺死という診断は行われず、それ以外の診断では入浴との関係は病名に反映されないこと、第三に、病理解剖を行っても死因が必ずしも明らかにならないこと、などの理由による。
しかし、入浴事故の約8割は、一人で入浴している元気な健康高齢者で起きており、もし入浴中でなかったならば死亡せずにすんだのではないかという点で高齢期の重要な健康問題であると思われる。
2)我が国の入浴事情
わが国で入浴事故が多発している背景には、独特の社会・文化的な理由がある。たとえば、欧米では身体の清潔を目的に入浴しているのに対し、わが国ではからだを温める、リラックスして入浴を楽しむ、という意味をもっている。むしろ、このような点を重視している人も少なくない。ある調査によると、一週間に3回以上浴槽内で入浴する人の割合は、日本では100%であるのに米国(ニューヨーク)では23%にすぎないという(おふろの楽園、資生堂新規事業部編著、求龍堂、1994年)。また、日本のサラリーマンに対する調査によると、家庭で最もくつろげるのは「お風呂に入っているとき」との答えが一番多かったという。
一方、米国などでの入浴の特徴は、バスルームは複数あってもシャワータイプが多く、朝、外出前、来客前などにシャワーをするのが一般的で、浴槽内での入浴はほとんどしない人も珍しくない(東京ガス・都市生活研究所、日米お風呂調査)。十字軍時代、イスラム教徒が「西洋人には清潔の観念がなく、入浴の方法を知らない」と驚いたという逸話が残っているそうである。このような欧米諸国と、銭湯という公衆浴場での入浴が社交や情報交換の場でもあったわが国とでは、入浴事故のメカニズムについて入浴の効果や生理作用への影響だけで説明することはできないだろう。