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センターの歴史
渋沢栄一と当センターとの関わり
養育院長 (明治22年~昭和6年)
渋沢栄一明治の初め、首都東京の困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として現在の福祉事業の原点ともなる養育院が設立されました。
養育院の創立は、養育院設立時の東京府知事大久保一翁(忠寛)が幕府の目付だったときに立案した、西洋風の・幼院・病院設置プランにさかのぼります。そのときに資金源とされ、養育院の設置資金にも使われたのが、松平定信が定めた江戸の貧民救済資金「七分積金」でした。
明治になり、当時七分積金(営繕会議所共有金)の管理を担当していたのが「日本資本主義の父」渋沢栄一でした。
渋沢栄一は1874(明治7)年より養育院の運営に関与し、1876(明治9)年5月11日に養育院事務長に任命されました。養育院は、1890(明治23)年、東京市営となり、渋沢栄一は養育院長に就任しました。以来91歳で亡くなるまで約50年間院長を続け、養育院廃止論の逆風を受けながら養育院を存続させ、分院・専門施設を開設して事業を拡大しました。
松平定信・大久保一翁・渋沢栄一と受け継がれてきた江戸・東京の福祉事業の歴史は戦後もつづき、現代の東京都健康長寿医療センターの設立につながっています。
当センターの歴史
| 高度医療 | 医療福祉 | |
| 初期 ―創立以前― | 江戸時代に幕府が江戸に設置した無料の医療施設「小石川養生所」が1722年に設けられる。 | 寛政の改革(1787~1793)に不時の災害時の江戸市民の救済のために七分積立を行い運用し、維新後、明治政府・東京府に引き継がれた。 |
| 江戸時代~明治維新 | 東京医学校(現:東大医学部)との連携 | 明治5年に創立されて以来129年に及ぶ事業の歴史を持ち、日本の社会福祉事業の中で、先駆的・先導的役割を担う養育院の創立 |
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開拓期
―福祉事業の確立― 明治~戦前 |
精神病、ハンセン氏病、結核などの対策、研究 | 初代院長渋沢栄一の尽力による施設運営の地盤固め |
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変革期
―高齢者福祉への転換― 戦後~平成21年 |
昭和47年
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昭和47年
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新生期
―医療と研究の融合― 平成21年~平成25年 |
都の組織改訂により、地方独立行政法人・東京都健康長寿医療センターとなる。 |
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新時代へ
―新病院開院― 平成25年~ |
東京都健康長寿医療センターは、病院と研究所が一体となって、高齢者の健康増進と疾病治療、予防を推進してまいります。 |
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名誉病院長を偲ぶ

蔵本築先生を偲んで
蔵本先生は1992年から第3代の老人医療センター病院長となられ、老年医学会の理事もつとめられていました。
当時私は万年の幹事で理事会や各委員会の裏方事務をしておりました。先生はいつも穏やかで、「紳士」とはこのような方であろうという方でした。第36回日本老年医学会総会では、圧倒的な例数の循環器臨床病理の成績を披瀝されました。当時私は米国留学から帰ってきて、今後の方向性も模索しているころで、社会問題にもなったMRSA感染制御に関し「感染症の高齢者におけるメチシリン耐性ブドウ球菌 (MRSA) に対する局所療法の長期成績」とロボット研究の走りでもある「マルチチャンネル排尿センサによる老年者尿失禁の管理-患者のQOLと介護労度の接点をめざして」という2題の筆頭発表者でした。
縁もあって一昨年から健康長寿医療センターに奉職していますが、蔵本先生の築かれた「落ち着いた学術的度量、知らざるを恥じる」という養育院からの風土を大切にしていきたいと思っております。 合掌
東京都健康長寿医療センター 理事長 鳥羽研二
蔵本築名誉病院長のご逝去にあたって
当院名誉院長蔵本築博士が令和3年3月26日、享年93歳老衰のためご逝去されましたのでここに謹んで報告申し上げます。
先生は、昭和27年に東京大学医学部をご卒業になり、同大学第三内科入局後、群馬大学医学部、浴風会病院などの医員を経て、昭和35年にフルブライト留学性として米国ニューヨーク州バッファロー大学に留学されました。
帰国後、東大医学部助手に復職後、昭和47年に当院の前身である東京都養育院付属病院研究検査科部長としてご着任されました。昭和50年には副院長、平成2年4月には名称変更となった東京都老人医療センター院長にご就任され、外来処方、診療予約システムにおけるコンピュータ導入や大規模な全病棟改修工事という難事業を滞りなく遂行されました。文字通り、高齢者医療施設としての新病院の創造の時代を村上元孝初代病院長とともに歩まれ、当院の運営・発展に多大な貢献をされました。
定年退職後の平成5年から当院顧問、平成9年には名誉病院長にご就任され当院の発展を暖かく見守っていただきました。また、平成6年には第36回「日本老年医学会総会」会長を務められ、会長講演は「加齢と疾病」と題し、21年間のセンターの5000例の剖検と臨床像と対比され、疾患の加齢による変化と特徴的な病態を示されました。更に、剖検率からみた診断率を示し、包括的な老年医学の必要性を強調され、日本の老年医学の発展に大きな足跡を残されました。
ここに哀悼の意を表し、心からご冥福をお祈りいたします。
東京都健康長寿医療センター センター長 許俊鋭
蔵本築先生を偲ぶ〜当院の発展と老年医学に多大な貢献〜
当院蔵本築名誉病院長のご逝去の報に接し、悲しみと大いなる喪失感を禁じ得ません。ここに謹んで哀悼の意を表します。
先生から多くの事を教えていただいた者の一人として、先生のご業績と思い出を記してみたいと思います。
先生は1971年(昭和47年)に当院の前身である東京都養育院付属病院の研究検査科部長として就任されて以来、副院長、院長、顧問、名誉病院長として長年にわたり当院の発展に貢献されました。
先生は、一貫して高齢者循環器疾患の病態について臨床病理および生理学的側面から解明することをライフワークとされておられました。 毎週金曜日午後に開催されるオルガンコントロールには病理部長が剖検例のマクロ所見を解説されるのを几帳面にメモされ、そのデータを循環器科の医師が作製した臨床サマリーと照合して膨大なデータベースを作成された。それらのデータを元に次々と論文を発表され、老年者の動脈硬化性疾患には高血圧、高コレステロール血症の関与が大きいことを臨床病理学の立場から立証された。
生理学の立場からも、隣接する老人総合研究所の生理学研究部門において冠循環の動態についての実験を続けておられ、また色素希釈法を用いての高齢者の血行動態の研究を地道に行われました。
それらの研究成果の一つとして特筆すべきことは、当時まったく未知の分野であった高齢者高血圧について収縮期血圧160mmHg以上では、明らかに心筋梗塞や脳梗塞が多くなることを臨床病理学の立場から立証されたことです。さらに世界に先駆けてプラセボを対照とした比較試験をおこない高齢者高血圧治療の有用性を実証され、またみずから立ち上げた臨床試験であるNICS-EH研究では、Ca拮抗薬と降圧利尿薬のわが国初の二重盲検比較試験を行い、両薬剤同等に有用であるとの結論を導き、世界的にも高い評価を得ました。
また教育面では、長崎大学や金沢大学などの大学から留学した多くの若手医師が先生の指導のもと、学問と診療に対する真摯な姿勢を学び、郷里に戻ったのち今も地域医療に貢献しています。
私も蔵本先生の驥尾に付して、高血圧の勉強をつづけることができ今日にいたっていますが、先生から学んだことはあまりに多く、感謝以外の言葉がみあたりません。
先生の当院への長年のご貢献に感謝申し上げるとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。合掌
東京都健康長寿医療センター顧問 桑島巖
蔵本築先生を偲んで
東京都健康長寿医療センター名誉院長蔵本築先生が令和3年3月26日にご逝去されました。
蔵本先生は、当センターが1972年に開設されたとき東京大学医学部第3内科より研究検査科部長として赴任され、以後副院長を経て平成2年から5年まで院長を務められました。
病院CPC、CC、剖検例のオルガンコントロール、学会予行、循環器内科のカンファレンス、読書会など、ご多忙なスケジュールの中、欠かさず出席され、若手医師を指導するため熱心に質疑、討議に加わっておられたことを懐かしく思い出します。蔵本先生は、ご自身の研究でも、高齢者の高血圧、心不全などの分野で多くの業績を残されています。これらのご努力は、開設間もない病院を一流の臨床力を持った病院に、また研究もしっかり行う病院に育て、かつ若手医師を育てようとされていた先生のご意思の表れであったのだろうと思っています。
平成6年には第36回日本老年医学会学術集会の会長を務められるなど、わが国の老年医学の発展にも多大な貢献をされました。
当センター、わが国の老年医学への多大な先生のご貢献に改めて感謝申し上げるとともに、心から先生のご冥福をお祈り申し上げます。
東京都健康長寿医療センター名誉理事長 井藤英喜
蔵本築先生との思い出
2002年に東大から東京都老人医療センターに赴任して以来、医局の歴代院長先生の写真の中に蔵本築先生のお顔を拝見してきました。着任前より「センターの循環器が有名なのは、村上元孝先生、蔵本築先生の貢献が大きい」と聞いておりましたが、桑島巌先生からは、「蔵本先生は、当時の日本では極めて珍しい高齢者高血圧に関するランダム化二重盲検試験NICS-EHを主導され、世界的なメタ解析グループBPLTTCにその仕事が引用された」と聞きました。その後、蔵本先生と直接お話ができたのは東大循環器内科10周年記念の会であったと記憶しています。
先生の残された膨大な剖検データは今も全く古びておらず、生活習慣病のリスク因子と動脈硬化との関係を病理の沢辺元司先生(現東京医科歯科大学教授)が再解析して論文化する際に、1990年頃蔵本先生と私の同級生の黒尾誠君(自治医科大学教授)の書いた論文を参考にさせて頂きました。また、私の部屋には先生の残された3000例以上の剖検例の、スコア化された心臓病理所見と心電図のデータが保管してあるのですが、それを解析して、高齢者でも診察室血圧値140mmHg以上で脳梗塞、心筋梗塞が有意に増加するという結果を老年医学会のシンポジウムで発表させて頂きました。
奥様の治子さまのご入院を契機に、しばらくお二人一緒に私の外来に来られていましたが、「高齢者の変性型の大動脈弁逆流症はあまり進行しない」など、現在の心エコー全盛の時代より多くの知見を剖検の時代に持っておられたことに感服しました。先生には特にご病気はなかったのですが、食べても太らないことが先生の悩みの種でした。広島に原爆が落ちた翌日に二人の妹さんを探しに爆心地に入られたそうで、それが原因でしょうかと話されていました。先生が広大附属高校のご出身で、私が附属福山高校であったためそんな話をしていただけたのかもしれません。
まだまだ教えていただきたいことは沢山あったのですが、歴代院長先生の写真の中のお顔を見ると、それは自分自身で研究せよと叱咤激励されているように感じます。蔵本築先生のご冥福を心よりお祈りいたします。
東京都健康長寿医療センター 副院長 原田和昌
蔵本築先生を偲んで
名誉院長蔵本築先生のご逝去に当たり、謹んで哀悼の辞を述べます。
蔵本先生は1992年から東京都老人医療センターの第3代の院長になられ、病院の発展に大いに貢献されました。院長回診では、いつも穏やかな雰囲気で、若い先生を熱心にご指導されていたことが印象に残っています。
私にとって忘れられない蔵本先生との思い出が2つあります。1つは1993年にブダペストで開催された第15回国際老年病会議のことです。その当時は、学会前に医局で多くの先生が集まり、発表の予行がありました。私はマクロファージの泡沫化の加齢変化という演題を発表しましたが、既に書いていた論文の文章を抜粋して、だらだらと発表してしまいました。その時、先生は何もおっしゃらなかったのですが、たまたま行きの航空機がご一緒になり、乗り換えの空港でラウンジに同伴させていただき、いろいろとお話しを伺う機会を得ました。蔵本先生が米国に留学され学会発表されたときに、指導教授が蔵本先生の発表原稿をテープに録音して下さり、先生はそれを聞きながら何度も練習されたことや、泊まっていたホテルで他の先生の練習する声が聞こえてきて驚いたことなどを話して下さいました。学会の発表は聴衆が理解できるように入念に準備して臨むべきだ、ということを教えていただいたように思います。
2つ目は蔵本先生に勧められて2013年のソウルでの国際老年病会議でシンポジウムを企画した経験です。その前年に当センターで同窓会が開催されたように思います。その会で、皆で談笑していた時に、突然、蔵本先生がいらして、学会の提案シンポジウムに応募するようにおっしゃいました。高齢者糖尿病の治療をテーマで応募し、採択され、韓国、台湾、日本の4人の先生に演者をお願いし、私が司会を務め、シンポジウムをなんとか無事に終えることができました。蔵本先生のお言葉があって、貴重な経験ができたと感謝しております。
蔵本先生の医師、研究者、教育者として多くの先生を導いた一生は尊敬の念に堪えないとともに、今後、当センターの指導医がめざすべきものであると感じています。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
東京都健康長寿医療センター副院長 荒木厚
蔵本築先生を追想する
蔵本築先生は東大病院では第三内科(主任冲中重雄教授)の循環器グループに所属し、私の一年上であった。したがって診療、研究などで行動を共にして親しくしていた。研究では、循環器グループのボスで金沢大学の教授であった村上元孝先生に師事されていた。村上先生は東京都老人医療センター(当時養育院附属病院)の初代病院長であった。蔵本先生は村上先生の指示でセンターに勤務し、その3代目の病院長になった。だが定年になっての後継者に私を指名されたのである。これには驚いた。卒業年次は1年しか違わないのだ。当時私は高知医大(現高知大学医学部)老年病科教授であと1年で定年であった。
蔵本先生の話では、64歳で病院長に就任すると1年で定年になるが、その後は適当な後継者がいないという理由で、当局(東京都立であった)に申請すれば3回は更新できる。つまり4年間は勤務できるということであった。私は64歳で東京に帰ることができた。東京でのそれからの人生は実りあるものになった。こうした点で私は蔵本先生に恩義がある。
村上先生も蔵本先生も広島の出身である。蔵本先生は被爆の過去があった。先生の専門は高齢者高血圧である。真面目で常に勉強されていた。若い時、二人でドイツ、オーストリアを旅行した時の楽しい記憶がある。突然逝かれて、なにか寂しい。ご冥福を祈ります。
元東京都老人医療センター名誉院長 小澤利男
蔵本先生ありがとうございました。
昨年まで葉書での近況往復の際は、先生のしっかりした筆致を拝見しておりました。ところが桑島ドクターからご入院の報を聞きましたあと、急なご逝去が心残りでなりません。弟子としましては、よい仕事をした折に恩師から褒めていただくことを無上の喜びと考えておりましたが、ついに鳴かず飛ばずに終始してしまいました。
私は、1969年卒業後、1972年養育院付属病院内科に入りました。印象に残っているのは、蔵本先生との週1回の動物実験です。当初は途惑う事ばかりでしたがいつしかブレイクし、自分の夏休みを使って一人で嬉々として実験室に向かうまでに至っておりました。瀉血の肺うっ血改善の実験的研究は、後に急性左心不全救命処置として、臨床応用も行われています。
臨床では当初、生理検査室で色素希釈法検査の研究を命じられました。心臓疾患患者の心拍出量、心短絡量などを非観血的に測定する検査でしたが、自分には大きく進展させる力量がなく、困り切っておりました。 折しも、当時注目され始めたカテコーラアミン製剤ドブタミンに関し、この色素希釈法を用いた研究で論文を書かせて頂き、気持ちが楽になった事を覚えております。
今になって考えますと、先生はアルコールがお好きではなかったようです。
小グループで、一緒に二次会に飲みに行った記憶はありません。また、ある祝賀会でのことですが、若いドクター達にマイクを押し出され、歌の催促がありました。カラオケもなくきちんと歌う事が難しい時代でしたが、なんとシャンソンの"枯葉"を終わりまで見事に歌われました。いざという時には何でもこなせる芸達者な一面をおみせになりました。
養育院付属病院で修行の8年間は、医師として社会人として自分を形成するもっとも重要な年月であったと思います。身近でご指導を受けた事柄は、いまでも数限りなく浮かんできます。エピソードの一部を、おもいつくまま書きました。
1980年に私を福井循環器病院に送り出していただきましたが、その後50歳で開業、67歳で医師を卒業、5年前から福井市北方の北潟湖畔で過ごしています。
心からご冥福をお祈りいたします。合掌
元養育院付属病院循環器科 三船順一郎
蔵本先生を偲んで
東京の桜が満開の頃、療養中と伺っていた北野病院(埼玉県新座市)の院長服部明徳先生(元内科部長)より蔵本先生ご逝去の悲しいお知らせを頂きました。現在、私は北野病院のグループ病院に勤務しており、これもご縁と思います。
1972年4月に一般高齢者専門病院として新たにオープンしたセンター(当時の名称は養育院附属病院)には東大より多くの幹部医師が入職し、初代院長は私の母校の金沢大学内科教授の故村上元孝先生でした。同年5月、私は村上先生のご厚意により同級生とともに新卒で入職し、蔵本先生と初めてお会いしました。先生は、東大第3内科より研究検査部長に就任し、私の姉が同内科研究室事務にいたご縁で挨拶に伺いました。先生は柔和なお顔で緊張した新卒の私を暖かく迎えてくれました。
私は各科ローテート後、循環器科を希望し、直接先生の指導を受け臨床医として育てて頂きました。当時は断層心エコー法がまだ普及していない時代で、循環器検査は、心電図・心音図・心機図の記録判読、色素希釈法による心機能検査でした。特に先生が発案した運動能力の低下した高齢者に対するイソプロテレノール負荷心電図検査は、剖検例の冠動脈狭窄と一致し、大変有用でした。先生は東大にいたときから精力的に実験動物を使った生理実験をされており、隣接する老人研(老人総合研究所)で蔵本先生と同じ研究室から赴任された医長の松下哲先生、私の大学の先生の先輩でCCU主任の三船順一郎先生方と一緒に冠循環の実験助手をしました。普段は温和な先生ですが、実験の手順を誤ると厳しい指導を受けました。強心薬投与実験では血行動態測定後、心筋を切除し、松下先生とともに細胞内代謝活性を測定して私の学位論文としてご指導頂きました。
先生は剖検例の心臓病理所見と臨床所見の対比を丹念にされていましたが、CCUに従事した私にとって興味あることは先生が可逆性心筋梗塞という病態を提唱したことです(1979年)。DIC、輸血、肺炎などの感染症、脳梗塞を契機に一過性の心筋梗塞様心電図変化を示すも剖検例では、肉眼的に心筋梗塞はなく、冠小動脈に血栓が認められ、心エコー図で追跡できた例は初期の無収縮から左室壁運動が改善した。これは冠動脈・左室造影が行われていれば "たこつぼ心筋症" と思われます。"たこつぼ心筋症" は1990年に日本で命名されたので、その10年以上前に先生は心電図と臨床所見を鋭く対比したことになります。
先生は1993年センターの院長退任後、自伝「老年医学の道」を出版されました。今再度読み返すとその詳細な足跡から先生の真摯なお姿に感銘を覚えます。常に私達を温かく見守りご指導下さった先生に改めて感謝しつつ、ご冥福をお祈りいたします。
平成の森・川島病院院長(元東京都老人医療センター循環器科部長)坂井誠
蔵本築先生と養育院付属病院時代を思う
先日桑島巌先生から蔵本築先生の訃報をいただいた直後に、親友の服部明徳先生からも連絡をいただきました。聞くと、この1年間ほどは体力の低下が進まれ、服部明徳先生の病院で2021年3月28日に息を引き取られたとのことでした。
私は昭和54年長崎大学医学部を卒業し、長崎大学第3内科(現循環器内科)に入局し、橋場邦武教授から初期教育を受けました。私は現健康長寿医療センターには、2回勤務させていただきました。1回目は医局からの国内留学として、養育院附属病院時代の昭和55年から3年余り、松下哲先生のもとで循環器科医員として勤務しました。長崎に帰った後、松下哲先生のお世話で再上京し、東京大学の永井良三先生の研究室で6年間遺伝子の研究をさせていただきました。第2回目の勤務は、老人医療センター時代で、松下哲先生から小澤利男院長が計画されているCGA病棟の手伝いをするようにとの御指示をいただき、東大の後、平成6年から平成14年まで、研究検査科医長兼CGA病棟メンバーとして8年間過ごさせていただきました。私の医師としての基礎は養育院附属時代に形成され、老人医療センター時代に育てられたものです。そう言う意味で養育院附属病院/老人医療センターの時期は私の人生の中で最も重要なものです。
蔵本築先生との思い出は第1回目の養育院附属病院の時代になります。初めての東京という街での生活は新鮮な驚きの連続でした。また病院の文化も長崎とは全く異なり、カルチャーショックを受けました。例えば、長崎の医局では先輩後輩の序列があり、名前は呼び捨てでしたが、最初に蔵本築副院長から"中原先生"と言われたのには驚きました。東京では医師であれば上下に関係なく、普通に"先生"付けで話していることが不思議でした。また養育院付属病院では頻繁に症例カンファレンスや剖検カンファレンスが、病院全体の統一行事として行われ、老年病医学会の学会予行は数日にわたるほどの演題数がありました。村上元孝院長や蔵本築副院長のご指導のもと、やる気に満ちた多くの医長やスタッフが努力することが普通の毎日であったことに驚きます。医療、研究に止まらず、病院と言う生き物の大組織をうまくコントロールされていたことに敬服します。私は長崎に帰った後、長崎医療センターの診療部長や副院長を経験し、現在は地域の老人病院の院長をしておりますが、この時の養育院付属病院の時代のような雰囲気を院内に作ることは大変難しいことを気付かされました。時代の流れもあるかも知れませんが、養育院付属病院時代の雰囲気は実に貴重で、それを実感したことはとても有意義だと思います。当時の理想的な病院であったと思います。
添付の心電図所見用紙は、古い循環器の先生方には懐かしく映ると思います。蔵本築先生と個人的な接触は、毎日夕方に開催される心電図の読み会でした。現在の心電計では自動診断で所見が出てきますが、当時はそのような機能はありません。循環器の医師は夕方循環器外来に集まり、その日に記録された心電図の診断を心電図所見用紙に記入し、その用紙を添付して病棟に返却するシステムとなっていました。夕方循環器外来に集まった医師は、積み上げてある心電図から適当に選んで所見用紙を埋めていきます。所見を順番に埋めていくと心電図全体をくまなくチェックできて、自動的に診断にたどり着くようになっています。記入した心電図所見は、蔵本築先生をはじめ、杉浦昌也先生、上田慶二先生、松下哲先生、大川眞一郎先生など、高名な循環器の先生方が、直接赤ペンで添削してくれます。循環器の初心者としてはできるだけ赤添削をされないように努力しました。この所見用紙はとてもよく出来ていて、私もその後さまざまな心電図教育の時に使わせてもらいました。
心電図所見を読む会は心電図を勉強するだけではなく、普通では話すことも出来ないような上の先生とのコミュニケーションが出来ることもメリットでした。蔵本築先生はいつでも気さくに丁寧に説明をしていただきました。心電図所見には一部養育院付属病院独自のものがありました。I度房室ブロックは一般にはPQ>0.20秒ですが、養育院付属病院ではPQ>0.22秒としていました。高齢者では房室伝導に多少の遅れがあるのが標準とのことでした。また所見用紙のなかに肺性Pと僧帽性Pの後に(気味)とありますが、これは一般的ではなく、ボーダーラインの症例が多かったために追加されているものだと思います。蔵本築先生がよく、「これは"気味"だね。」と言いつつ丸をつけておられたのを思い出します。
私が長崎に戻ってからは蔵本築先生とお会いするのは学会場や同窓会会場だけでしたが、お会いすると、「おう、元気?」とにこやかに声をかけていただいていました。ここしばらくはお会いする機会もなく過ごしておりましたが、突然の訃報を受けて本当に驚きました。やさしい笑顔が忘れられない先生です、安らかにお休みください。
和光会 恵寿病院院長(元東京都老人医療センター研究検査科医長) 中原賢一

小澤先生を悼む
小澤先生との出会いは、東大老人科研修時代に、原沢教授の助教授をなされ、回診時に睨みを効かせて、ポツリと核心をついた指摘をされたことが怖かった思い出がある。当時は循環器の自律神経機能(チルトテーブルなど)を研究されていたがこれは後から知ることとなった。しばらくして高知医大の教授に栄転され、老年医学分野では嚆矢となるコホート研究(香北町研究)を立ち上げ、多くの論文をLancetなどに発表した。松林先生、土居先生、西永先生など後進の育成もなされた。
次の出会いは、東京都老人医療センターの病院長として帰京され、日本で初めて総合的機能評価病棟(CGA病棟)を立ち上げた時である。私も歳をとり、大内教授のもとで病棟医長になりたてであった。当時の大学院生など若手を派遣してノウハウを教えていただき、東大老年病科の入退院にCGAを組み込み、ファイルメーカープロによるCGAを含むデータセットを自分で作り、全入院症例のデータベースがスタートした。その後はよく知らないが、形は多少変わっても今でも電子カルテ上で動いていると聞いている。
残念ながら、当時のCGA病棟は老人医療センターでは一部に止まって、十分なインパクトは持ち得なかった。
2000年に杏林大学に移った時に、認知症医療にCGAを組み込んで「物忘れセンター」を立ち上げたこと、厚労科研で「総合的機能評価ガイドライン策定班」を立ち上げ、小澤先生門下の松林先生、西永先生、に佐々木英忠先生、葛谷先生、秋下先生、神﨑先生、横手先生など当時の、また後日の老年医学分野の教授が勢揃いして班員を構成してくださり、ガイドライン完成時には、小澤先生に推薦文を頂戴した。要点を抜粋する。
高齢者では、疾病の予防から臨床、ターミナルに至るまで、常に的確な評価がなければならない。よい評価があってはじめて、最適な医療とケアが可能となる。
評価と医療・介護は、あたかも車の両輪のような役割を果たす。
本書では、総合的機能評価のノウハウが、広い視野から検討されている。さまざまな老人医療の場において、このような評価が実践されれば、医療とケアは最 適化され、患者と介護者の満足が得られるであろう。患者の自立とQOLの改善に資するところが大きい。
小澤先生との最後の接点は、顕彰委員会で「尼子賞」を受賞いただいたことである。 この賞の名称の許諾にもお骨おりいただき、また受賞を喜んでいただいたことは、CGAの外弟子である小生のせめてもの恩返しと思っている。
東京都健康長寿医療センター 理事長 鳥羽研二
小澤利男先生を偲んで
1993(平成5)年4月から1997(平成9)年3月までの4年間にわたり病院長を務められた小澤利男先生が、2024(令和6)年8月21日にご逝去された。
先生は当センターに来られる前の高知医大(現在は高知大学医学部)老年病科教授時代に75歳以上の高齢者の高齢者総合機能評価検診を中心とした香北町(現在は香美市)研究に取り組まれ、ADL、認知機能、社会的背景が生命予後やQOLに深く関係すること、また適切な栄養管理や運動をすれば要介護状態に陥る高齢者が減少するということを明らかにされました。このような香北町研究の結果は、2000(平成12)年に創設された介護保険制度や、その後の介護予防事業の制度設計に大きく貢献したと考えられます。
このような経験から、先生は、高齢者医療では疾患の評価のみでなく高齢者総合機能評価を実施することが重要と考えられ、病院長ご就任と同時に高齢者総合機能評価と、それに基づく医療・ケアを実践できる体制づくりを始められました。センターの診療録も、従来の一般的な診療録から高齢者総合機能評価を含んだ診療録に変更されました。また、当センター内分泌代謝科で研鑽を積まれ、その後老人・乳児医療費無料化を全国に先駆けて実施し、高齢者の受診率の向上、乳幼児死亡率の激減など大きな成果をあげていた岩手県沢内村(現在は西和賀町)国保沢内病院、次いで宮城県鶯沢町(現在は栗原市)町立鶯沢診療所で地域医療の経験を積まれていた高橋龍太郎先生(後に東京都老人総合研究所副所長)を医長に迎え、高齢者総合機能評価病棟を新設されました。高齢者総合機能評価病棟では、医師、看護師、管理栄養士、薬剤師、リハビリ職員、ソーシアルワーカーなどがチームを組み高齢者総合機能評価を実施し、その情報を考慮に入れた医療を実施し、心不全の再入院率が顕著に低下したなどの成果をあげられました。
高齢者総合機能評価の実施により、各診療科が専門とする疾患の高齢者における特徴や、診断・治療上の注意点を明らかにするという開院以来の当センターの医療は、患者さんの立場に立った、QOL、退院後の生活に配慮した医療へ、言いかえると病気を見る医療から、病気を持った高齢者の生活を支える医療へと、また医師のみで行う医療からチーム医療へ、高齢者の生活の場である地域との連携を重視した医療へと大きく変化し、高齢者医療専門病院としての独自性が確立されることとなりました。
私個人の研究においては、主任研究者として実施した全国規模の約1,200例の高齢者糖尿病を対象とした多危険因子に対する6年間にわたる前向きランダム化比較治療介入試験(J-EDIT)における調査項目に、体重、血糖、血清脂質や血圧といった検査項目だけでなく、高齢者総合機能評価における調査項目を加えることとしました。その結果、ADLや認知機能の在り方により血糖の治療目標値を変えるという現行の高齢者糖尿病の診療ガイドラインの作成につながる多くのエビデンスが得られました。ADL低下や認知機能低下をいかに予防し、それらを持つ高齢者をどのように治療。ケアするかという今日的な課題に、ある程度こたえることができる結果が得られたわけです。このような研究が出来たのも、小澤先生のお陰と思い深く感謝しています。
小澤先生は、当センターを退職後、「老年医学の先駆者たち」 ライフサイエンス2006年、「老年医学と老年学 老・病・死を考える」 ライフサイエンス2009年、『「長生き病』を考える 老年医学の道を歩んで』 東京図書出版2012年、『「長生き時代」を生きる 老・病・死の不安をどう乗り越えるか』(落合恵子、加賀乙彦と対話集) 集英社2014年、「健康長寿の道を歩んで」 幻冬舎2021年など多くのご著書を上梓されました。その都度、ご著書を頂き、読ませて頂きました。それぞれ、医学的な内容に加え、古今東西の名著の引用など、その博学ぶりに驚きましたが、多くのことを学ばせて頂きました。最後のご著書は、先生が92歳の時に上梓された「健康長寿の道を歩んで」ですが、衰えぬ記憶、好奇心、調査・研究能力の高さに唯々感心しておりました。
先生は、我が国の老年医学・老年学の進歩、当センターの医療の在り方に大きな足跡を残されました。先生は、最後のご著書において、「動く」、「楽しむ」、「喜ばす」、「感謝する」ことが健康長寿の秘訣であり、自分もそれらをモットーに生きていると書かれています。先生ご自身、毎朝のデンマーク体操、午前、午後各30分の歩行、スケジュールを決めて読書、執筆、執筆項目に関する調査・研究に当たることを自らに課され、それらを楽しみつつ95歳の長寿を全うされたことと思います。自分の人生は悔いのない人生であった、いつ死んでもいいから、その際は賑やかに送ってくれと笑顔でおっしゃっていたことを思い出しつつ、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。先生、ありがとうございました。
東京都健康長寿医療センター 名誉理事長 井藤英喜
小澤先生を偲ぶ
小澤名誉院長とは東大老年病学教室の同窓会でいつもお会いしていたので、私にとって小澤先生は教室の大先輩という印象が強い。私が入局した昭和62年にはすでに高知医大老年病科に教授として赴任されており、その後も直接指導をいただく機会は無かった。高知医大退任後、東京都老人医療センター院長として東京に戻られてからは毎年のように同窓会に顔を出され、若手の発表から同窓会の運営に至るまで歯に衣着せぬコメントをされるお姿に感銘を受けた。OBの先生方によると、そのようなきわめて真摯なお人柄であるという。その理解は私の立場が変わり、また小澤先生が亡くなられた今でも全く変わっていない。
小澤先生の業績で特筆するべきは高齢者総合機能評価(CGA)を日本に導入されたことだろう。CGAは、老年医学者ならば今や誰も否定することがない、老年医学を凝縮した手法である。今年、私が代表として「CGAに基づく診療・ケアガイドライン2024」を作成した。その中でCGAの歴史について記載しているが、1990年 高知医大・小澤利男教授 CGAを臨床研究として導入、1993年 東京都老人医療センターで日本初のCGA病棟が開設、と我が国におけるCGAの端緒を小澤先生が開かれたことが記されている。続きには、2003年に当センターの鳥羽研二理事長が日本で初めてのCGAガイドラインを作成されたことも記載されており、CGAが紡ぐ老年医学の発展にも当センターが大きく寄与したことがわかる。
小澤先生の老年医学と当センターへのご貢献に心より感謝するとともに、小澤先生のご冥福をお祈り申し上げる。
東京都健康長寿医療センター センター長 秋下雅弘
小澤利男先生を偲んで
2002年に私が東京都老人医療センター循環器科に赴任してはじめての当直の時に、急性心筋梗塞の患者が救急入院したのですが、緊急カテーテル治療を行い無事救命できました。当時、高齢者の専門病院に心臓カテーテル室があるのは非常に珍しいことでしたが、小澤利男先生の肝入りで当センター(旧施設)に作られたということをお聞きました。小澤先生とは、残念ながら一緒にお仕事をする機会はありませんでしたが、数多くの著書を頂き、また、学会場などでよく声をかけていただいたことを、とてもうれしく思っておりました。その後、東大循環器内科10周年記念の会でいろいろお話しを聞かせて頂くことができました。
小澤先生は2001年に設立された日本動脈硬化予防研究基金の初代運営委員長として、日本動脈硬化縦断研究(JALS)という動脈硬化リスク因子についての全国規模のデータ統合に基づく疫学研究を始められ、日本人の多くの貴重なデータを発表されました。さらに、2016年頃の日本循環器学会の高齢者循環器疾患の治療という朝一番のシンポジウムで私の発表の次に、有名な外科の先生が「認知症の患者の心臓血管外科治療」という話をされた時に、「(患者のCGAなどの評価をきちんとせず)できるからといって手術をするべきではない」と最前列の席から手を上げられ警鐘を鳴らされたことを、今でも鮮明に覚えています。老年医学はもちろん高齢者循環器の大先輩としてこれまで多くのことを教えていただいたことを心より感謝しています。
小澤利男先生のご冥福を心よりお祈りいたします。
東京都健康長寿医療センター 副院長 原田和昌
老年医学に導いてくださった小澤利男先生
小澤先生が2009年に主宰された第26回日本老年学会と同時に開催された第51回日本老年医学会の事務局を担当させていただいた西永正典と申します。
このたび、小澤先生の訃報に接し、公私にわたってあり余るほどのご指導やご厚意を受けた高知医大の一学生・一医局員として、言い尽くせない感謝の言葉を申し上げたく、僭越ながら筆を執らせていただきました。
小澤利男先生は、1981年に新設国立医大に初めて設置された老年病科教室の初代教授として高知医科大学に赴任されました。当時学生であった私は、「老年病科」の響きにとても惹かれました。ほとんど知識もないまま、小澤先生に老年医学をやってみたいとお話したところ、入局後研修2年目より東京都老人医療センター(現東京都健康長寿医療センター)に研修に出していただけました。そこで老年医学の基本、さらに病理学の重要性を知ることができました。研修中も何かと気にかけていただき、老年医学についての昨今の話題を折あるごとにお聞かせいただきました。研修終了翌年には大学院に進ませていただき、老年医学の研究会議にも出席させていただけるようになりました。ある日、毎週開かれる研究会議に小澤先生がGFA(Geriatric
Functional Assessment;のちのCGA)に関連する本の記載1), 2)をご紹介され、島田先生や松林先生方と夜遅くまで熱心に議論されていたのを覚えています。また、地域在住高齢者を対象とした岡豊町研究や香北町研究を立ち上げられ3)、それを近くで見てお手伝いもさせていただく機会もありました。1990年には会長として、第32回日本老年医学会を高知市で開催され、会長講演でGFA(CGA:総合機能評価)の概念をお話になりました。
私が大学院を島田和幸先生のお力で何とか卒業させていただいたころ、1993年小澤先生は東京都老人医療センターの病院長として、CGA(総合機能評価)病棟を立ち上げていらっしゃいました。CGAを初めて日本に導入した総合病棟、私はその魅力に取りつかれ、我儘・無理を押し通して小澤先生の老人医療センターCGA病棟に勤務できるようにしていただきました。さらに、豪州のCGA研修にも参加させていただきました。その後、小澤先生のもとでCGAの臨床・研究に没頭していたころ、突然、小澤先生から母校(高知医大)に戻るようにとのお話があり、香北町研究継続のお手伝いと老年医学の教育・セミナー・大学病院へのCGAの導入を中心に高知での仕事をスタートしました。この間小澤先生から老年医学の研究についてご丁寧なご指導と温かい励ましをいただきました。
2009年小澤先生が日本老年学会会長になられ、老年医学会をはじめ関連学会も同時に、横浜で開催されることになりました。事務局としていろんな方々とお話する機会に恵まれ、大変貴重な経験をさせていただきました。講演前日夜中まで、推敲を重ねられた会長講演用のスライド本体が学会場当日にないことが発覚し、奥様の機転で国立のご自宅から横浜の学会場まで届けていただき、会長講演に何とか間に合ったスリリングな瞬間を今もたびたび思い出します。小澤先生をはじめ、みなさまのご尽力もあって、無事に学会を運営することができました。私の家庭の事情で高知から関東に戻らなければならなくなったとき、また、私の病気療養中も小澤先生は親身になっていろいろと心配りをしていただきました。
2017年には、小澤先生が恩師の一人と仰がれていた尼子富士郎先生の日本老年医学会尼子賞(第2回)を受賞され、心からお喜びになられていました4)。
その後も、精力的に老年医学に関する著作5),6),7),8)をつぎつぎと発表され、現在に至るまで多くの読者から支持されています。
いわゆる高齢者の仲間入りをした私も、小澤先生の日頃のお考え、お好きな孔子のことば、ご著書をこれまでどおりお手本として、日々感謝しながら年を重ねていこうと思います。
心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
西永 正典
1) Rowe JW, Besdine RW:Geriatric Medicine, 2nded, Little Browne and Co. 1988
2) Comprehensive Geriatric Assessment: AGS Public Policy Committee J Am Geriatr 1989;37:437-474
3) 小澤利男:高齢者の総合機能評価 日老医誌 1998;35:1-9
4) 小澤利男:老年医学の道を歩んで-総合機能評価CGAの導入と発展を考える-日老医誌 2017;54:211-221
5) 老年医学の道を歩んで ㈱ ライフ・サイエンス 1997
6) 老年医学の先駆者たち ㈱ ライフ・サイエンス 2006
7) 老年医学と老年学―老・病・死を考える― ㈱ ライフ・サイエンス 2009
8) 「長生き病」を考えるー老年医学の道を歩んでー 東京図書出版 2012
小澤利男先生を偲んで
東京都健康長寿医療センター 名誉院長 小澤利男先生ご逝去の報に接し、心に大きな穴が空いたようで、謦咳に接した日々を懐かしんでおります。
小澤先生は平成5年4月に故蔵本築先生の後任として、高知医科大学から当センター院長として着任され、平成9年3月までの当病院の院長として4年間お勤めになられました。
先生が当院で手がけた業績は枚挙にいとまがありませんが、その幾つかを記してみたいと思います。
まず第1は、高齢者医療にCGG(Comprehensive Geriatric Assessment)を導入され実践されたことです。高齢者は様々な疾患を抱えていることから、多面的かつ包括的な診療が重要であることは現在では常識になっており、総合内科という言葉に置き換わっております。しかしその考え方を日本で初めて導入し普及したのは他ならぬ小澤先生でした。当病院の一角にCGA病棟を開設し、多様な疾患に対応できる人材を配置し、リハビリとの速やかな対応も可能にしました。まさに老年医療のあり方に先鞭をつけられた先生でした。
第2の大きな業績は、当院の循環器診療に大きな変革をもたらしたことです。
当院循環器科は昭和47年の開設以来、sick sinus syndromeなどの高齢者心臓疾患おとして不整脈や弁膜症の診療に力を注いでいましたが、その頃急速に増加し、カテーテル治療などの技術も進化した冠動脈疾患に対しては造影装置すらない状況の中で、世間からは大きく出遅れていました。小澤先生は着任からまもない1995年にフィリップス社製の冠動脈造影装置の設置に踏み切り、当院でもようやく経皮的冠動脈治療が行われるようになりました。循環器疾患診療としては現在の心臓外科につながる大きな業績です。
第3の業績として、動脈硬化の簡易診断として脈波速度の普及に尽力されたことが挙げられます。動脈硬化を数値化あるいは可視化するという目標を掲げ、当時の日本コーリン篠田社長と協力しオシロメトリック法を用いたフォルムという四肢の血圧を同時に測定して閉塞性動脈硬化症の診断に有用な機器の開発に尽力されました。また、動脈硬化予防研究会を立ち上げるなど、その普及に尽力し、現在では動脈硬化指標の一つとして定着し、保険適用となっています。
またそれと関連して夜間血圧が高いことが脳動脈硬化を促進してラクナ梗塞の要因となることを高知大学教授時代に発表され、それまで「夜間血圧を下げてはいけないという高血圧の常識を一変させたことは高血圧治療学における今日に至る画期的な発表でした。第4の業績としては、若手人材の育成に尽力されたことです。高知医科大学老年学教室を退職された際には、西永正典、濱松昌彦、青野正(故人)、など多くの若手医師が先生をしたって当院に就職し、当院の戦力として活躍しました。平成6年当時はまさに循環器には20名を超えるスタッフが活躍し、一つの大学医局並みの大所帯でありました。(写真)

前列には中原賢一、上田清吾(故人)、桑島、松下哲、小澤先生、大川真一郎(故人)、坂井誠、前田茂医師が並び、後列には大勢の若手スタッフや研修医の姿が映っています。これらの医師たちは現在も高齢者診療の第一線で活躍されています。
私なども色々な大きな学会のシンポジウムや特別講演で発表する機会を与えていただき、医学会で飛躍することができたのは小澤先生のお陰であると感謝しております。
第5の業績として、自ら95歳まで健康長寿を実践され、老年学とは何かを自らの体験を持って追求されたことです。先生は64歳で老人医療センター(現・健康長寿医療センター)を退職され、以後は老年医学の本質を探るべく自らの経験に加えて、老年医学の先駆者たちの業績を"老年医学の先駆者たち"(ライフサイエンス)という本にまとめられました。老年病学を学ぶものにとっては必読の書となっています。
以上のように小澤先生が日本の老年医学や高血圧病学のみならず、当院の発展に大きな業績を残されました。心よりご冥福をお祈りいたします。合掌
東京都健康長寿医療センター 元副院長 桑島巖
三人の日本人
日本老年医学会の第32回学術集会は、1990年高知市で開催され、それを主催したのが小澤利男先生でした。初めての高知への旅で、桂浜の散策やカツオのたたき、四万十川の川海苔はいい思い出です。その翌年、地方の町や村の高齢者は、都市圏とは違った生活をしているのだろうか、あまり変わらないのだろうかと興味を抱き、岩手県の沢内村(現西和賀町)に単身で赴任しました。送別会の席で、当時の蔵本築第3代院長が「高橋君は岩手県の寒村で働くそうです」と紹介されたことを「まあ、そういうことだろうな」と妙に人ごとのように感じたのを覚えています。
昔、細倉鉱山で栄え、閉山後過疎化した宮城県の鴬沢町(現栗原市)で働いていた1993年の暮れ、井藤英喜内分泌科部長(前センター理事長)から1本の電話をもらいました。その年から第4代院長に就任した小澤利男先生が一度会いたいと言っているとのことで、正月早々、院長室で初めてお会いしました。用件は、4月から開設される総合評価病棟(CGA病棟)の責任者にならないかとのお誘いでした。そろそろ単身赴任をやめて自宅から通勤できる首都圏に戻ろうと思っていたのと、臓器別の専門医療ではなく高齢者への包括的医療の提供という新病棟の方向性に興味を抱きその場で引き受けました。
看護師やソーシャルワーカーとの連携を基本とし、リハビリ専門職や栄養士、薬剤師なども参加する多職種でのチーム医療体制をとるCGA(Comprehensive Geriatric Assessment:包括的機能評価)病棟の運営は全くの手探り状態から出発しました。その後2000年から介護保険がスタートし、多職種連携や生活機能評価が当たり前になっている現在では今更感がありますが、1994年当時、日本でそのような方針に基づいて運営されている病棟はどこにもありませんでした。ADLやIADL、認知機能などを手分けして評価し、多職種が集まって検討することは高齢患者さんの状態像を共有するのに有用であり、病状の把握と治療方針の決定にも大いに参考になります。
しかしながら、毎週検討会を重ねる中で、何かが足りないという思いを払しょくできませんでした。米国ではCGAの介入によって入院期間や医療費に良い影響が出る、といった報告がなされていました。わが国でも徐々に入院期間の短縮や効率的医療が話題になってきたものの、現在のような包括支払い方式(DPC/PDPS)も議論されていないころで、関わる様々な職種のスタッフに入院期間や医療費でCGA効果のインセンティブを持ってもらうのは無理があると思いました。CGAのような高齢者医療の嚆矢は、英国の女性医師Marjory Warren(英国老年医学会の共同創設者)が、1935年、着任した病院で開始したとされています。彼女の活動に関する文献を読むと、さまざまな疾患や障がいをもった高齢者が長期入院を強いられている当時の状況に疑問を持ち、生活機能レベルを評価し、リハビリテーション介入による自宅復帰、長期ケア施設への転所、入院での看取りといった退院計画を立てていくのが目的であることが理解できました。
CGAとは本人にとって最も望ましい退院を支援するためのツールである、というのが当時悪戦苦闘した後の結論です。ただ、それでもなおCGA体制の中心をなす多職種連携なるものに疑問を持ちました。多職種連携とは単なる役割分担ではないはずだ、それぞれの職種が自分の持ち分の仕事をすればすむわけではなく、情報の共有にとどまらない"プロセスの共有"という実感が伴うものを目指すべきだと思いました。私を含めて当時関わったスタッフは"プロセスの共有"を実感することは乏しかったと反省します。
その後もCGAに関連する著書や文献を読み進める中で、老年科医の並河正晃さんが書いた「老年者ケアを科学する」(医学書院、2002年)に出会いました。並河さんは、高齢者医療の核心とは「1人ひとりの老年者が持つ3種類の問題、すなわち身体的、精神心理的および社会環境的な問題を、個々の老年者の立場で偏りなくとらえていくこと」と指摘し、<3種類の問題の均等視>という優れた一語で表現しています。"プロセスの共有"の実感には、多職種が<3種類の問題の均等視>という方法論的態度で臨むことが必須なのです。
さらに何年か経った頃、学習院大学の非常勤講師として「福祉」の授業でCGAを紹介するために下調べをしていた時、ハンセン病者の隔離政策に反対し外来治療を行っていた小笠原登医師の口述筆記録に出会いました。"癩の看護学(1934年)"(近現代日本ハンセン病問題資料集成 戦前編第3巻、不二出版、2002)という短い文章です。ハンセン病を看護する看護師に向けたもので、三つの点が重要だといいます。その二番目が「患者の身体、性質および境遇を省察すること」となっています。これは、並河さんの「身体的、精神心理的および社会環境的な問題を偏りなくとらえていくこと」とぴったり一致します。当時のハンセン病は、疾患と障がいが社会生活の維持に大きく影響する病でした。小笠原医師は高齢者に特化して診療していたわけではありませんが、慢性の疾患による生活機能障がいを深く理解していた人だと思います。
CGAは、小笠原登、並河正晃、小澤利男という三人の日本人によって我が国にもたらされました。小児科医(Pediatrician)ならぬ老年科医(Geriatrician)によって今後も工夫され広がっていってほしいと心から祈念しています。
元研究所副所長 高橋龍太郎